工藤日出夫 駅前レポート 第2号(2018年11月)

新・北本創生へのイノベーションを探る連載(2回目)

若年者人口の市外流出は人口急増期の反動が一因か !

前号では、北本市が抱える「ふたごの事実」である少子高齢・人口減少の実態を述べました。

 

そして、その影響は財政の硬直につながり、自治体としての自立(自律)を損なう可能性を指摘しました。

 

さて、なぜ人口減少が市税減収につながるのかということです。これは、北本市が市制施行後45年にわたり、まちづくりの都市像である「緑にかこまれた健康な文化都市」に起因していると、私は概観しています。

70年代驚異的な人口増

表1は、北本市の昭和45年以降の国勢調査による人口の推移です。

昭和45年に人口が3万人を超え、翌年の昭和46年に市制施行しています。北本団地の入居が始まったのもこの頃です。昭和45年から昭和50年までの5年間で、15,000人の増加です。

 

その後も平成7年までの20年間で、23,000人毎年平均1,100人増加しました。これは、東京圏に人口が集中し、飽和状態から放射線状に郊外へ人口が移動した高度経済長期の極めて平均的な現象でありました。

 

市は人口誘導への特別なインセンティブの政策をしなくとも、働き盛りの住民(勤労者)が移住しました。新住民と呼ばれ、わたしもその一人です。


住宅都市で人口11万人へ

当時は道路等の都市基盤整備が追い付かず、いまだに市街化区域に狭隘道路が多数点在しています。人口増加に対応するための乱開発の結果と言えると思います。

 

このような状況から、好むと好まざるを得ず、北本市は「住宅都市」として成長してきました。

 

これは必然的に、都市像を「住宅都市」として決めざるを得なかったとわたしは見ています。しかも市は人口増加で市税収入も増え、学校等の基盤整備は必要であったが、人口の増加は成長に大きく寄与したでしょう。

 

昭和40年代は、市の将来人口を11万人と見積もったことでも、この時期の人口増加は驚異的であったということです。

 

市は、人口増加とともに、大型商業施設(忠実屋等)を誘致したが工場等の企業誘致には消極的でした。これは市街化調整区域(農業振興地)が多く、商業用地と工業用地が少ないという、都市計画の不備も要因であったと思います。

 

後部に「土地利用構想図」を添付しましたのでご参照ください。


絵に書いたアーバン計画

昭和63年、北本市長を会長に、鴻巣市、桶川市、吹上町、川里村の3市1町1村で埼玉県央都市づくり協議会を設置し基本構想を策定しました。その後それを受け、平成2年に「県央アクシスプラン」を策定しました。

 

さらに北本・桶川地域におけるまちづくりを、より具体的な段階へと検討を進めるために、「県央アーバンアクシス計画」を策定しました。人口増加期・成長期の将来都市に向けた「夢に満ちた」計画です。この計画は、次回詳しく解説します

農村から住宅都市化へ

下の図1です。市の「土地利用構想図」ですが、高崎線の東西に分布されているのが市街地です。東側は国道17号バイパスの内側、西側はおおよそ西小学校前の通りまで、市域の約3分の一ぐらいでしょうか。

 

企業誘致(工場系)のための工業地は、市の東部と南部にあります。東部はスバルやA&D、新日本瓦斯。南部はマテリアルで、企業誘致の余裕はありません。

これ以外は市街化調整区域で農業振興地です。北本市は、昭和40年代まで農業が主要産業でした。

 

戦後の一時期企業誘致で中小工場が立地されたが、昭和40年代からの住宅都市政策とともに、企業の市外移転が進むとともに、自営から勤め人への潮流の中で農業の担い手不足等もあり、耕作面積と農業生産量も減退しました。

 

しかし、新しく移住した住民が納めた住民税は市の財政を支え、農業等の生産業減退の不足をカバーしたことで、企業誘致等の経済産業政策への政治の関心は強まることはなかったと、私は見ています。

若年層市外流出の人口減

さて、なぜ北本市は「人口減少先進市」になっているかです。

 

私の独断でありますが、前頁の表1の人口増加期(昭和45年から平成7年)の反動と見ています。すなわち市制施行から40年間、人口動態を見誤ったと断言できます。

 

まさに、政治の不作為です。それは残念なことですが、今日も続いています。

 

昭和40年代からの新住民の移住は、昭和50年代から沢山の子どもが誕生し、人口増加に拍車をかけました。新しい学校の建設が始まりました。小学校2校中学校1校から、小学校8校中学校4校へと約20年間で4倍になりました。

 

表2によれば、平成3年の児童・生徒数は約8千人を超えています。しかし、この増えた子供たち(新住民ジュニア)が、中学校を卒業し高校大学へと進学し、市外に通学通勤するようになり、その後、独立し転居したことで人口減少を起こした要因と言えます。

 

また、若者の転出はそのまま出産可能年齢層の減少につながり、出生者数の減少という現象を起こしました。下記表2の児童生徒数の推移にあるように、平成3年をピークに5年ごとに減少していることが分かります。少子化の影響が直接データに表れています。

消滅都市で市民に危機感

1986年に始まったバブル経済は、5年後の1991年に終わり、バブル崩壊と言われています。バブル経済が崩壊したことで上昇した土地の値段は下落しました。また、都心の容積率等の緩和も手伝い平成10年ごろから、都心回帰、南進現象が起き県内北部地域の市町村から人口減少が起き始めました。

 

平成22年の国勢調査の速報値が平成23年2月に公表され、北本市は秩父市、行田市に続く人口減少ベスト3と新聞で報道されましたが、市民の関心は薄く大きな話題にはなりませんでした。

 

しかし、平成26年の北本市は「消滅可能性都市」と公表されて、一気に人口減少問題が市民の関心になり、危機感が強まりました。

 

北本市の人口減少が、昭和40年代の急増期の反動だとすれば「必然的」であるが、それを見逃した政治の不作為は批判されるべきです。それが今も続いていますが、その政治の一員でいることは慙愧に堪えません。(次号へ

<データの出典は北本市の統計>




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